異色の経歴!職人歴ゼロから足場会社経営者へ華麗なる転身
職人たちを束ねる人が「ベテラン職人」であるとは限らない。株式会社ヤマト社長、手塚暁生社長は、そんな、一見意外そうな事実を再認識させてくれる存在かもしれない。
家庭事情での退職をきっかけに、一足飛びに経営者へと転身を成功させて、10年。これまでの歩みを伺った。
―定番の質問で、これまでの「鳶職人歴」を伺わせてください
手塚社長「実は、元々は鳶職人とは違う、大手仮設企業の営業職から鳶の仕事に移りました。それも「足場の会社を作ろう!」となって、いきなりこの世界に入った形です。多くの人が職人から社長になるので、珍しいんじゃないでしょうか?
最初は足場の組み方も知りませんでした。現場経験は全くゼロ、研修で行ったくらいで、営業のための知識がかろうじてあるだけで、現場の職人としての技量はとても低かったです。社長になってから覚えたような感じでした。会社を始めて10年ですから、職人歴も同じですね。
社長として営業をするにあたって「これではまずい」と、足場関連の資格を取りました。今も社長としての業務が中心ですが、人が足りなければ現場にも入ります。」
―確かに、職人からたたき上げで一人親方、社長、となる人が多いなか珍しいですね。会社立ち上げはどんなきっかけがあったのでしょうか?
手塚「話が出始めた頃が26歳くらいでしたね。その頃、実家の事情から僕が農家の跡を継ぐことになり、営業として勤めていた会社の退職を決めました。立ち上げの話が出始めたのはその翌月くらいでした。」
―最初から立ち上げを目指されていた?
手塚「いや、会社立ち上げはとっても微妙で(苦笑)当時の勤務先は、県内では大手で有名でしたが、自分の中では不満や疑問が沸いていたんですね。
で、会社を辞めて一カ月位過ぎた頃、知り合いの鳶職人さんから「一緒にやらないか?」「いい会社作ろう!」って熱心に誘われたのが始まりです。当初は鳶職人さん主導でのスタートでした。」
―意外にシンプルなキッカケですね。
手塚「立ち上げ当初、僕は営業で「仕事を取ってくるからやろう!」で、職人さんと始めたんですが、リーダー格の職人さんも個人の現場を抱えてるもんだから、経営や営業まで手が回らない。だんだん足並みが乱れてきて、それで、僕が自分の会社を立ち上げ、となったんです。これが、28歳くらい。結婚して2年くらいした頃。」
―起業するにしても若い上、結婚間もなくで奥様やご家族からの反対はありませんでしたか?
手塚「親も交えて家族会議でしたね(笑)なんとなくだけど、失敗するという感覚は全くなく、「潰れないように頑張るから」って感じで。」
―職人さんの雇用形態は?
手塚「営業と職人は完全に分業で、職人さんたちは全員一人親方です。最初は普通に会社として社員を雇う形も考えたけれど、結果的に分けたことが良かったと思います」
―社会保険などは?
手塚「職人さんは個別で労災に特別加入してもらっています。公共工事は非常に厳しくなっている。最初は会社にバイトで来ていて、厚生年金加入する人も居ましたが、一人親方になったほうが楽だと分かった。職人さんたちが社員を選ばないですね。」
時折笑いを交えて語る手塚社長の様子は、どこかひょうひょうとして、気負いを感じさせない。しかし退職から起業に至るまでは、様々な思いもあったようだ。
―いい会社を作りたい、と思ったことにも理由がある?
手塚「大手での営業職時代、足場鳶の職人さんたちが泣かされている現状を見聞きして来たわけですね。自分自身も営業として働いていて「おかしいだろう。」と思うような理不尽なこともありましたね。」
―大手で働いていたころ嫌だったことは?
「(眉間にしわ)やっても、やっても、給料が増えない。
働いていた当時、同僚の退職が複数重なってしまったことがあったんです。やむを得ない事情でのことだったのですが、現状で自分の担当する顧客回りがこなせてないのに、会社の都合で欠員の分をこっちへ押し付けられて、てんてこ舞させられているのに、給料は上がらない。
そういうことが嫌で、きちんとした評価がされる会社を作りたかった。営業の良さは評価が給料に適正に反映されること。そこは大事にしたいな、と。」
職人も、営業も、足場会社に携わる人間が皆満足できるような会社を目指して作られた株式会社ヤマト。次回からは彼らの活躍について紹介していきたい。
友達にも鳶の事を教える。