その卓越したカリスマ性で横須賀の職人たちのリーダーとして活躍した鳶の大親方、『小泉又次郎』。前回に引き続き今回では、そんな彼がどのように「いれずみの又さん」として、政治の世界で一世を風靡する存在へとなっていったのかや、彼の魅力を表すようなエピソードを記していきましょう。
又次郎は1887年(明治20年)、父由兵衛と親しかった戸井嘉作の誘いを受け、立憲改進党に入党します。当時神奈川県内においての改進党の党員は勢力としてもあまり大きなものではなく、又次郎自身、特に強い志を持って入党したわけではありませんでした。しかし、又次郎はここで師とも言うべき存在である「島田三郎」と出会うことになります。そして彼の影響を強く受けた又次郎は、政治の世界へとどっぷりと浸かっていくことになるのです。
その後1907年(明治40年)に横須賀市議会議員に当選した彼は、その流れのまま神奈川県議会議員を経て、1908年(明治41年)衆議院議員選挙に立候補して初当選を果たします。以来、戦後の公職追放(GHQによる特定人物を公職に就けなくする施策)となるまでに連続当選12回、通算38年に渡り代議士として活躍した彼は、「いれずみの又さん」、「野人の又さん」と称され、政治家としての天性の才能を余すところなく発揮したのです。
そしてついに1929年(昭和4年)、浜口雄幸率いる浜口内閣とその跡を継いだ第2次若槻内閣において、又次郎は逓信大臣(郵便局や通信を管理する官庁のトップ)に任ぜられることになるのです。鳶の親分から「いれずみ大臣」の異名を持つ重要官庁の大臣にまで出世する・・・まさに物語のキャラクターのような人生ですよね笑。事実、彼はその破天荒な行動や、気持ちの良い人柄、常に民の側に立たんとするスタンスが民衆から高い評価を受けただけでなく、本来厳しく政治家を監視する立場であるはずの報道関係者からすら彼のキャラクターは大いに愛されていたようです。
そんな彼の破天荒っぷりを表すエピソードがあります。それは彼が逓信大臣に指名されたときの話です。内閣府の大臣職と言えば政治家の最終目標と言っても過言ではない役職。普通の政治家なら二つ返事で快諾する筈だったのですが、彼はこう言ってのけました。
「野人に名誉は要らん。おれは大臣などにはならん。今度の内閣は、よほどうまくやってくれんと困る。だから、おれは大久保彦左衛門になって、悪いことでもあったら、すぐねじこんでやる。もう年寄りだから、いくら憎まれても、いいからな」(梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』より抜粋)
つまり、自分は日本の中心にいるよりも、中心が悪事を働いた際にそれを糾弾する側の人間で在りたい。だから大臣にはなりたくないということでしょう。あくまで自分は民衆の代表者なのだ、という彼の強い意志がよくわかりますね。
結局浜口雄幸の一時間に渡る説得を受け、彼はしぶしぶ大臣になることを決意するのですが、その時ですら「どうも仕様がなくて、大臣にされてしまった。野人の歴史をけがして残念だ」(梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』より抜粋)と言い放つ有様。大臣になることで、自分の歴史が汚れるなんて公然と言ってしまえるのは世界広しといえどそうはいないでしょうね・・・笑。
いかがでしたでしょうか?大衆政治家として多くの人々の心をつかんだ小泉又次郎。彼の持つカリスマ性や求心力は、気難しい職人たちをまとめ上げてきた鳶の親方としての日々により磨かれたのかもしれませんね。
友達にも鳶の事を教える。