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イマトビ・カコトビ 特別篇 【鼠小僧次郎吉】

 

やってきましたイマトビ・カコトビ特別篇!今回は、誰もが一度は聞いたことがあるであろう、江戸時代にその名を轟かせた大泥棒のお話です!
この人の本業は鳶職人だったって、皆さんはご存知でしたか?時代劇をはじめとする色んな物語で名前を聞く彼ですが、調べてみると実はこの人、かなりしっかりとした資料が残っており、どんな人間だったのかの大部分が明らかになっているんです。
今回はそんな有名なようで意外に知らない「彼」の生涯と、彼が人気となった理由をお話ししましょう!

鼠小僧次郎吉

 

鼠小僧
(出典:ウィキペディア

鼠小僧(ねずみこぞう)(1797年~1832年)は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯です。本名は次郎吉(じろきち)といい、ドラマや小説では鼠小僧次郎吉となっていることが多いですね。歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれた次郎吉は、10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がりましたが、あまり性に合わなかったのか16歳で親元へと戻りました。
その後次郎吉が選んだ仕事が鳶職人だったのです。ですが、彼は素行不良により父親から25歳の時に勘当されてしまいます。それから賭博にハマり散財を重ねた彼は、その資金稼ぎのために泥棒に身をやつしたと伝えられています。

 

義賊・・・ではなかった!?それでも鼠小僧が愛された理由

 

泥棒家業に手を染めた彼は、武家屋敷を専門に盗みを働きました。その件数はわかっているだけで屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余り(現在での約1億2000万円)にも上るというのだから驚きです(あまりにも件数が多すぎて、本人すら正確な数字は覚えていないそうです)。
ちなみに彼、盗みを始めて2年後に一度御用になっているのですが、その時は初犯を装ったことで入れ墨を入れられたうえで江戸を追放されただけで済んだそうです。その後一旦は上方(現在の関西地方)に姿を消していたようですが、しばらくしてまた江戸に戻り、盗みを再開しました。
そして天保3年5月5日(1832年6月3日)、大名屋敷に忍び込んだ鼠小僧は、ばったり主である松平忠恵(まつだいらただしげ)と出くわし、ついに御用となりました。結果彼は「市中引き回しの上獄門」という、放火や殺人犯が受けるような非常に重い刑となり、その生涯を終えました。本来は窃盗犯にこの刑が科されることはまずないのですが、これはあまりにも件数が多かったこと、また武士たちから強い恨みを買っていたことなどが理由なのではと言われているようです。
さて、鼠小僧と言えば、盗んだお金を恵まれない人々に分けていたエピソードが有名ですが、実はそのような行動は実際にはなかったことが分かっています。
それでも彼が民衆の間で義賊と呼ばれ、歌舞伎や物語などのちに様々な彼にまつわる創作物が作られるほどの人気を博するようになったのは、彼が一般市民の家には決して盗みに入らず、ひたすら武家屋敷のみをターゲットとしていたことが大きな理由だったようです。
当時の武士は様々な面で恵まれた扱いを受けていた特権階級。普段から一般市民の羨望と嫉妬、そして憎悪を受けていた彼らとある意味で戦っていた鼠小僧は、自分たちに代わりお上に一泡吹かせてくれた「正義の味方」のように民衆には映ったのかもしれません。

いかがでしたでしょうか?今回はいつもと趣向を変えた内容でお届けしたイマトビカコトビでした!
鼠小僧のように明らかな犯罪者でありながら、義賊と呼ばれ、様々な逸話を持つ人物は世界中に数多くいます。いつの世も人々はダークヒーローにあこがれる気持ちがあるのかもしれませんね。

友達にも鳶の事を教える。

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